
陰陽師――その言葉を聞くだけで、星を読み、式神を操り、都の闇に潜む怨霊や災厄と対峙する、ミステリアスな存在を思い浮かべる方も多いでしょう。そして、その代表格として誰もが知るのが、安倍晴明です。
しかし、その天才・安倍晴明を育て上げ、彼が活躍する「陰陽道」という世界の礎を築いた、さらに偉大な人物がいたことをご存知でしょうか?
その男の名は、賀茂忠行(かもの ただゆき)。
安倍晴明の師として、そして陰陽道の歴史における真の巨人として、彼は平安の世に君臨しました。しかし、その功績の大きさとは裏腹に、弟子の晴明の輝かしい名声の影に隠れがちです。
この記事では、陰陽師や寺社巡りを愛するあなたが、さらに深くその世界を楽しむために、知られざる巨星・賀茂忠行の圧倒的な生涯、驚くべき能力、そして彼ゆかりの地を巡る旅へとご案内します。
5000字を超えるこの記事を読み終える頃には、あなたの陰陽師に対する見方は一変し、次に京都を訪れる際の楽しみが何倍にも膨らんでいることでしょう。さあ、平安時代の奥深い闇と光の世界へ、足を踏み入れてみましょう。
第1章:賀茂忠行とは何者か?- その出自と時代背景
賀茂忠行の人物像に迫る前に、彼がどのような家系に生まれ、どんな時代に生きたのかを知る必要があります。これこそが、彼の能力の源泉を理解する鍵となるからです。
謎に包まれた生没年と、由緒正しき賀茂氏の血脈
賀茂忠行の正確な生没年は、残念ながら歴史の記録には残っていません。しかし、彼が活躍したのは10世紀前半、醍醐天皇から村上天皇の治世にかけてとされています。平安京が都として成熟し、藤原氏が摂関政治の基礎を固めつつあった、まさに平安文化が花開こうとする時代でした。
忠行が属した賀茂氏は、古代から続く極めて格式の高い氏族です。そのルーツは神話の時代にまで遡り、初代天皇・神武天皇の東征を導いた霊鳥「八咫烏(やたがらす)」に化身したとされる賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)を始祖としています。
この伝説からもわかるように、賀茂氏は古来、神意を読み解き、祭祀を司る能力に長けた一族でした。彼らは山城国(現在の京都府南部)に根を下ろし、京都最古の神社である賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の祭祀を代々担ってきたのです。
つまり、賀茂忠行は生まれながらにして、神々と交信する特別な血脈を受け継いでいたと言えるでしょう。
律令国家のエリート集団「陰陽寮」
忠行がその能力を発揮した舞台は、「陰陽寮(おんみょうりょう)」でした。
陰陽寮とは、律令制に基づいて設置された中務省(なかつかさしょう)管轄の国家機関です。現代の私たちが抱く「占い師の集団」というイメージとは少し異なり、当時の陰陽寮は、天文学、暦学、気象学、占術といった最先端の科学技術を駆使して国家運営を支える、いわばエリート技術者集団でした。
彼らの仕事は多岐にわたります。
- 天文道(てんもんどう): 天体の動きを観測し、日食や月食、彗星の出現といった「天文異変」を解釈し、吉凶を天皇に報告する。
- 暦道(れきどう): 日々の吉凶や行事の最適な日取りを記した暦を作成・管理する。
- 陰陽道(おんみょうどう): 土地の吉凶を占う「相地」や、個人の運命を占う「占筮(せんぜい)」、そして災いを祓う儀式を行う。
当時の人々にとって、自然現象や天体の動きは神々の意思そのものでした。日食が起これば政変の予兆と恐れ、彗星が現れれば災厄の訪れを案じました。陰陽師は、これらの超自然的な現象を「読み解き」、国家や人々の進むべき道を示す羅針盤のような存在だったのです。
賀茂忠行は、この国家の頭脳ともいえる陰陽寮において、他の追随を許さない卓越した能力を発揮していくことになります。
第2章:賀茂忠行の圧倒的な功績 - 逸話が語る超絶的な能力
賀茂忠行の名を不滅のものにしたのは、彼の神がかり的な占術の腕前と、後継者を育て上げた卓越した指導力でした。古典文学に残された逸話から、その実像に迫ってみましょう。
「相物」の達人 - 失せ物を見つけ出す驚異の透視能力
忠行の能力を端的に示すエピソードが、『今昔物語集』巻第二十四に収められています。
ある時、学者であり貴族でもあった紀淑望(きのよしもち)の家で、大切な品物が盗まれる事件が起こりました。困り果てた淑望は、占いの名手として名高い賀茂忠行に助けを求めます。
屋敷に招かれた忠行は、淑望と几帳(きちょう)を隔てて座ると、静かに占いを始めました。そして、おもむろにこう告げたのです。
「盗まれた品は、この屋敷の庭にある梨の木の下、一丈(約3メートル)ほどの深さに埋められています。それは一つの櫃(ひつ)に納められています」
家人たちが半信半疑で庭を掘り返してみると、果たして忠行の言葉通り、梨の木の根元から櫃が見つかり、中には盗品がそっくりそのまま入っていました。
この術は「相物(そうもの)」と呼ばれる、失せ物のありかを探し当てる占術です。忠行がこれほどまでに正確に場所を特定できたのは、単なる当てずっぽうではありません。彼が目には見えない「気」の流れや土地の情報を読み取り、まるで透視するかのように情景を思い描くことができた証拠です。この逸話は、彼の占術が単なる学問の域を超えた、超常的な能力であったことを物語っています。
式神を自在に操る陰陽道の大家
陰陽師といえば「式神(しきがみ)」の存在を欠かすことはできません。忠行もまた、優れた式神の使い手であったと伝えられています。
彼の式神は、使い走りや雑用といった単純な仕事だけでなく、主人の身を守る護衛や、情報収集といった高度な任務もこなしたといいます。夜道を歩く際には、目には見えない式神たちが忠行の前後左右を固め、あらゆる災厄から彼を守護したとされています。
この時代の式神は、まだ紙の人形(ひとがた)などではなく、術者の精神力によって使役される、より霊妙で不可視の存在でした。それを自在に操ることは、術者の精神的な強さと呪力の高さを証明するものであり、忠行が紛れもなく当代随一の陰陽師であったことを示しています。
天才を見抜く慧眼 - 安倍晴明との運命的な出会い

賀茂忠行の最大の功績は、自身の能力だけでなく、それを次代に継承させたことにあります。そしてその継承者こそが、息子の賀茂保憲(かもの やすのり)と、希代の天才・安倍晴明でした。
忠行と晴明の出会いは、非常にドラマチックな逸話として『古事談』に記されています。
ある夜、忠行が牛車に乗って外出からの帰り道、幼い安倍晴明(当時はまだ童子)もお供として従っていました。京都の一条戻橋にさしかかった時のことです。
牛車の中でうたた寝をしていた忠行は、不意に何かの気配を感じて目を覚ましました。そして、暗闇の向こうに、おどろおどろしい姿の「百鬼夜行」がこちらへ向かってくるのを霊視します。
「しまった!」
忠行はすぐさま呪を唱え、自身の姿を鬼たちから隠しました。しかし、ふと隣を見ると、供の童子である晴明が、まったく同じ方向を恐れもせずにじっと見つめているではありませんか。
「……お前にも、今のが見えたのか?」
忠行が驚いて尋ねると、幼い晴明はこくりと頷きました。通常、訓練を積んだ陰陽師でなければ見えないはずの鬼の姿を、この少年はいとも簡単に見抜いたのです。
この瞬間、忠行は晴明のうちに眠る、計り知れない才能を確信しました。
「この子は、並の人間ではない。私の術をすべて教え込まねば、この才能は世の役に立たぬまま終わってしまうだろう」
この日を境に、忠行は晴明を正式な弟子として迎え入れ、自身の持つ陰陽道の奥義を惜しみなく授け始めます。その教え方は、『江談抄』に「瓶の水を移すが如く」と記されています。これは、瓶に入った水を一滴もこぼさずに、そっくりそのまま別の瓶に移すように、忠行が持つ知識と技術のすべてを晴明に伝授した、という見事な比喩です。
もし、忠行にこの慧眼がなければ、安倍晴明という陰陽師は歴史の舞台に登場しなかったかもしれません。天才を発見し、育て上げた師としての功績は、計り知れないほど大きいのです。
第3章:賀茂忠行ゆかりの地を巡る - 陰陽師ファン向け聖地巡礼ガイド
賀茂忠行の物語を知ると、彼が活躍した京都の街を歩いてみたくなりませんか?ここでは、陰陽師ファンや寺社巡り好きのあなたが、忠行の息吹を感じられる聖地をご紹介します。
1. 賀茂御祖神社(下鴨神社) & 賀茂別雷神社(上賀茂神社)- 賀茂氏の原点
まず訪れるべきは、賀茂氏の氏神を祀る下鴨神社と上賀茂神社(総称して賀茂社)です。ここは賀茂忠行のルーツそのものであり、彼の霊的な力の源泉となった場所です。
- 賀茂御祖神社(下鴨神社)
- 見どころ: 広大な「糺(ただす)の森」は、太古の自然がそのまま残る神聖な空間です。一歩足を踏み入れれば、都会の喧騒が嘘のように静まり返り、清浄な空気に満たされます。忠行もこの森で、自然界の精霊や神々と交感し、その感性を磨いたのかもしれません。本殿に祀られているのは、賀茂氏の始祖・賀茂建角身命です。彼に手を合わせることで、忠行へと続く悠久の血脈に思いを馳せることができます。
- 陰陽師的視点: 境内にある「相生社(あいおいのやしろ)」は縁結びの神様として有名ですが、二本の木が途中から一本に結ばれている姿は、陰陽の統合を象徴しているようにも見えます。また、境内を流れる瀬見の小川の清らかさは、禊(みそぎ)や祓(はらえ)といった儀式の重要性を思い起こさせてくれます。
- 賀茂別雷神社(上賀茂神社)
- 見どころ: 細殿(ほそどの)の前にある、円錐状に盛られた一対の**「立砂(たてずな)」**は必見です。これは祭神が降臨したとされる、神社の背後にある神山(こうやま)を模したもので、神様をお迎えするための依り代(よりしろ)です。
- 陰陽師的視点: この「立砂」は、まさに陰陽思想を体現したものです。向かって左が「陰」、右が「陽」を表し、この一対で宇宙の森羅万象を象徴しています。鬼門を清め、神域を結界する役割も持つこの立砂を見れば、忠行が学んだ陰陽道の根源的な思想が、神社の祭祀の中に深く根付いていることを実感できるでしょう。
2. 晴明神社 - 師弟の絆に思いを馳せる場所
安倍晴明を祀る晴明神社は、陰陽師ファンの聖地中の聖地です。主役は晴明ですが、ここを訪れる際には、ぜひ師である賀茂忠行の存在を心に留めてください。
- 見どころ: 境内に輝く「五芒星(晴明桔梗印)」、晴明が念力で湧き出させたと伝わる「晴明井」、そして「一条戻橋」のミニチュアなど、見どころは満載です。
- 陰陽師的視点: 晴明が使ったとされる数々の呪術や奇跡。その力の源流には、忠行による「瓶の水を移すが如き」教えがありました。晴明井の水をいただきながら、「この力を授けたのは賀茂忠行だったのだ」と考える。一条戻橋の逸話に触れ、「ここで忠行は晴明の才能を見抜いたのだ」と想像する。そうすることで、晴明神社の持つ物語が、より一層深く、立体的に見えてくるはずです。
3. 廬山寺 - 平安の宮中儀式を追体験する
紫式部の邸宅跡としても知られる廬山寺(ろざんじ)ですが、陰陽師ファンにとっては別の意味で重要な場所です。
- 見どころ: 毎年2月3日の節分に行われる「鬼法楽(鬼おどり)」という追儺式(ついなしき)が有名です。貪欲、怒り、愚痴を象徴する三匹の鬼が踊り狂い、最後は弓で射られ退散するというものです。
- 陰陽師的視点: この儀式のルーツは、平安時代の宮中で大晦日に行われていた「追儺」にあります。追儺は、悪鬼や疫病を都から追い払うための国家的な儀式であり、その中心的な役割を担ったのが陰陽師でした。賀茂忠行も、宮中で方相氏(ほうそうし)を率い、矛と盾を持って「鬼やらい」の呪文を唱え、都の安寧を祈っていたことでしょう。廬山寺の鬼おどりは、そんな忠行が生きた時代の儀式の雰囲気を、今に伝えてくれる貴重な機会なのです。
4. 旧・陰陽寮跡地 - 忠行が活躍した仕事場を偲ぶ
最後に、少しマニアックなスポットをご紹介します。それは、賀茂忠行がキャリアのほとんどを過ごしたであろう「陰陽寮」の跡地です。
- 場所: 現在の京都市中京区、千本丸太町交差点の北西角あたりが、平安京大内裏における陰陽寮の所在地だったと推定されています。
- 楽しみ方: 残念ながら、現地に記念碑や案内板があるわけではありません。しかし、地図を片手にこの場所を訪れ、「かつてこの場所に、国家の頭脳ともいえる役所があったのだ」「ここで忠行は星を観測し、暦を作り、弟子の晴明に奥義を授けていたのかもしれない」と想像を巡らせる。これこそ、歴史散策の醍醐味ではないでしょうか。行き交う車や現代的な建物の向こうに、平安の夜空を見上げる忠行の姿を思い描いてみてください。
第4章:賀茂忠行が後世に与えた、あまりに大きな影響

賀茂忠行の功績は、彼個人の活躍だけに留まりませんでした。彼が育て上げた息子と弟子が、日本の陰陽道の未来を決定づけることになるのです。
陰陽道の「家学化」- 賀茂・安倍二大宗家の確立
賀茂忠行から陰陽道の奥義を受け継いだのは、息子の賀茂保憲と、高弟の安倍晴明でした。忠行の死後、陰陽寮のトップである陰陽頭(おんみょうのかみ)の地位は保憲が継ぎ、彼は父をも凌ぐほどの陰陽師として朝廷に仕えました。
そして、日本の陰陽道の歴史における決定的な出来事は、この賀茂保憲の代に起こります。
保憲は、自らが持つ陰陽道の奥義を、誰にどのように継承させるかという問題に直面しました。彼には実子である賀茂光栄(かもの みつよし)と、父の代からの高弟である安倍晴明という、二人の優れた後継候補がいました。
『続古事談』によれば、保憲は二人の能力を慎重に見極めた上で、次のような決断を下します。
- 一族が代々受け継いできた「暦道」は、息子の賀茂光栄に。
- 安倍晴明の天賦の才が最も活かされる「天文道」は、弟子の安倍晴明に。
こうして、陰陽道の二大奥義は、二つの家系に分担して相続されることになりました。これにより、「暦の賀茂氏、天文の安倍氏」として、二つの家系が専門分野を世襲する「家学」が確立されたのです。
この体制を築き上げたのは賀茂保憲の功績ですが、その源流には、息子の保憲と弟子の晴明という二人の傑出した才能を育て上げた、師・賀茂忠行の存在がありました。忠行がいなければ、この歴史的な分担相続も起こりえなかったでしょう。彼は、陰陽道が二大宗家として発展していく、その壮大な物語の扉を開いた人物なのです。
現代文化に生きる忠行の遺産
私たちが映画や小説、漫画で楽しむ「陰陽師」の物語。そこで描かれる、クールでミステリアスな天才・安倍晴明と、彼を温かく見守り導く師匠、という師弟関係の原型は、まさに賀茂忠行と安倍晴明の関係そのものです。
夢枕獏氏の小説『陰陽師』や、それを原作とした映画、アニメ、舞台など、数々の創作物の中で、晴明の人間性や能力の背景には、必ず師の存在が描かれます。それは、晴明というキャラクターの魅力を深く掘り下げる上で、師・忠行の存在が不可欠であることを示しています。
私たちが陰陽師の物語に心を奪われるとき、その感動の源流には、千年の時を超えて語り継がれる、賀茂忠行という偉大な師の姿があるのです。
まとめ:今こそ、賀茂忠行に光を
安倍晴明という、日本史上でも類を見ないスーパースターの影に、私たちは賀茂忠行という真の巨人の存在を見過ごしがちです。
しかし、記事を通じてお分かりいただけたように、
- 神事を司る賀茂氏の血脈を受け継ぎ、
- バラバラだった知識を「陰陽道」として体系化し、
- 驚異的な占術で天皇の信頼を得て、
- そして何より、安倍晴明の才能を見出し、育て上げた。
これら全ての功績を成し遂げたのが、賀茂忠行です。彼がいなければ、安倍晴明の活躍はなく、私たちが知る「陰陽道」もまったく違う形になっていたでしょう。彼は、陰陽道の歴史における「始まりの男」であり、「偉大なる師(グランドマスター)」なのです。
次にあなたが京都の神社を訪れるとき。
次にあなたが陰陽師の物語に触れるとき。
ぜひ、思い出してください。きらびやかな弟子の陰で、日本の精神史に巨大な足跡を残した、賀茂忠行という男の存在を。彼の視点で歴史を見つめ直す時、古都の風景も、壮大な物語も、今までとはまったく違う、さらに奥深い輝きを放ち始めるはずです。