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本多静六の名言から学ぶ人生の幸福と成功の本質。

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「人文知」と「事業」の探究者|法人1社と個人事業1つを経営|大学卒業後、内定企業を蹴って人文知・リベラルアーツを濃密に学ぶ道へ|その後、財務・IT分野を経験して独立|リベラルアーツ・歴史・哲学・経済|

今日は本多静六について。

本多静六(1866-)

本多静六について知っている人は今どれくらいいるのでしょうか。昭和世代の人はほとんど知っているのかもしれませんが、令和の若者たちの中では知名度はそんなに高くないかもしれませんね。

本多静六は日本で初めての林学博士であり、日比谷公園や明治神宮の森、はたまた全国各地の水源林や防風林、都市公園の設計・整備などを手がけた人物。大学教授でありながら、有名な「四分の一貯金法」を実践し、巨万の富を築いてさまざまな慈善事業も行っています。

新一万円札の渋沢栄一とも同郷(埼玉県)で、日本の近代経済人を代表する人物の一人と言えますね。

今日は、昔何度か読んだ『本多静六の努力論』という本を久しぶりに本棚で発見し読み直してみて、「こんな良書はめったにないな!」と改めて感動した(と同時に、昔何度か読んだのにもかかわらず、まったく内容を覚えておらず、実践もしていなかった自分に幻滅した)ので、今日は自分の記憶に刻み込む意味でも、特に印象に残ったポイントをシェアします。

働くことは生きることである

私はこの機会に勤労の本質を改めて明らかにしておく。そもそも人は、生きんがために食わんがために働くのではなく、また金銭や名誉のために働くのでもない。実に、人は働くために生きているのである。言い換えるなら、「生きる」と「働く」とは同義語で、働きを厭うのは生を厭うことであり、働きをやめるのは生きることをやめること、つまりは死である。それならば、いやしくも生きている以上、働くのが自然であり、本能であり、当然であり、また幸福でもある。(中略)勤労は人生を価値づけるもの、いやむしろ人生そのものであって、決して金銭や名誉を得るための手段ではない。働いて金銭や名誉を得たというのは、ただその働きの結果にすぎず、いわば働きのかすである。(中略)名利を目的とせず、人生の本能的営みとして働いている人は、やがてその働きが道楽となり幸福になるのだ。

真に高級な勤労観では、勤労自体(働きそのもの)に価値を認めて、それに満足感謝し、報酬などはまったく考慮の外に置くか、または少なくとも第二義以下に置くべきである。(中略)すなわち人は、勤労によって自己の生そのものを活かされるという至上の報酬を受けた上に、さらに働きの結果として物質や名誉の報酬を受けることになるのだから、名利はまことに目的以外の幸福と言うべきである。

「人は何のために働くのか?」

社会に出て働くすべての人が、一度は空を見上げながら自分に問いかけたことがあるでしょう。

静六翁は言います。「働くことは生きることであり、生きること働くことである」と。

”Work, or die”(働け、さもなくば死ね)というマッチョ思想の静六翁。

「今息をして生きているのであれば、働いたほうが幸福だよ?お金のために働いてるだって?そんなものは働くことの”おまけ”でしかないんだ。働くこと自体が自分への最高の報酬であり、幸福の源泉なんだ!」

「労働は神から与えられた罰である」と考える西洋古代の人たちが聞いたら卒倒しそうな労働観ですが、私はこの考え方がめちゃくちゃしっくりきます。職業・仕事があるということはありがたいこと。もちろん自分に合わない仕事や職場はあるでしょうし、不条理なブラック企業もあるでしょう。そういう環境は

清貧はほどほどにー物質や金銭を軽視しないこと

特に学者や宗教家の中には、金銭や物質の欲望を軽視して精神生活のみに憧れ、真に清貧を楽しむ者もいるから、要望は物質的なものと精神的なものとの二つに区別することもできる。だが、それは普通便宜上の区別であって、私が信じるところでは、肉体がなければ精神が宿るところもなく、またいかに精神修養のできた人でも長く食わずにはいられないのだから、決して物質を軽視するわけにはいかない。

また、「心ここに非(あら)ざれば視れども見えず、聴けども聞けず、食えどもその味を知らず」で精神(こころ)がなければ物質の存在を認めることもできない。だから、私は精神も物質も一元不二なものと信じるのであり、いわゆる物心一如論あるいは霊肉一元論である。

ちょっと前から「スピ系(スピリチュアル系)」という言葉をよく聞くようになりました。

前世やあの世、占い、パワーストーンやパワースポットなど、スピリチュアルなものを信じたり、生活や人生に取り入れたりする人たちのことを総称する言葉です。(やや揶揄するニュアンスが入ってる場合もあります)

(広い意味では私も「スピ系」に分類されるのかもしれませんが)こういうスピ系と言われる人たちの中には、精神的なものやスピリチュアルを追い求めすぎて、「地に足が付いていない」人たちがいるように思います。

「地に足が付いていない」とは、「仕事や金銭的なこと、物質的なことに弱い」という意味です。

こういう人たちが知るべきことは、「精神なくして物質はなく、物質なくして精神はない。精神と物質はコインの裏表であり、不即不離である」という観点です。

どんなに高尚で精神性の高い人でも、この世では食べていかなければいけない。

歴史的に人間の高度な精神性を扱ってきた「宗教」においても、壮麗な大聖堂やモスクなどを建立してきたわけですが、それらは莫大な富の裏付けがなければできなかったこと。高度な精神性やメッセージを多くの人々伝え届けるためには、物質的な富の下支えが必要だったわけです。

この本を読んでもらえればわかるかと思いますが、本多静六もすごく霊的・スピリチュアルなことを語っています。しかし、その内容に説得力があるのは、彼が物質的な富をないがしろにするどころか、その道の達人(マスター)であったからでしょう。

精神と物質、霊と肉をまるで「陰陽太極図」に象徴されるように、相反するものではなく一体のもの(Mind and matter is one)であると捉えていく静六翁の視点は、物心両面で人生を充実させていくうえで不可欠な観点ではないでしょうか。

習慣の偉大なる力

文章なども、少し辛抱して書き続けると面白く道楽になる。私は今でも下手なくらい、初めは大嫌いであったが、これは努力が足りないのだと考えて、満二十五歳の九月から毎日十四行三十二字詰めの文章、しかも印刷価値のある文章を一枚ずつ、五十歳まで必ず書くという行を始めた。(中略)もう五十歳はとうに過ぎ、行は済んだのだが、長年の癖で八十五歳の今日、なお毎年1000ページ以上書いている。おかげでつまらない本だが中小370冊余りも書けたのである。

25歳の9月から毎日400字詰めの原稿を書き続けるという日課を始めた本多静六。仕事の出張や病気など、様々な事情で原稿を書けなかった日が続いた場合は、後日必ずその分の字数を取り戻すように自分に課していたそうです。「積小為大」「積土成山」という言葉もありますが、自分が決めたことを毎日の日課としてやり続けることには、想像以上の力がありますね。

本多式四分の一貯金法

私の家では、初めの間は通常収入である月給をもって一家の経済を縦、月給の内でまずその四分の一を天引きして貯金し(予備費)、次に家賃その他の生活費などに分けて、その予算通りにやる。したがって、月末などにたとえ胡麻塩で食べていても、決して予算以外の支出はしない。最初はずいぶん苦しいこともあったが、後には臨時収入(本の印税、賞与、旅費の残りなどを貯金したもの)と、通常収入の四分の一貯金とが一緒に貯まって、ひとかどの財産になったので、これをもっとも有効に利用して、相当の通常収入が得られるようになった。その後は財産からの上がりと月給とを合わせたもの、すなわち全通常収入を四分し、一分を貯金、一部を生活費、一部を交際費、一部を慈善事業に充てて、いわゆる四分経済法を実行することにした。

一介の大学教授であるにもかかわらず、莫大な資産を築き、「蓄財の神様」と言われた静六翁。その理由こそが「本多式四分の一貯金法」です。ポイントはいくつかあると思いますが、最も大事なことは、「まず初めに自分で決めた一定額を天引きして貯金せよ」ということでしょう。「給料の四分の一なんて多すぎる!」と思う人もいるでしょうし、自分も現在の収入と支出を考慮すると四分の一はハードルが高いと感じてますが、必ずしも四分の一でなくてもいいと思ってます。そうではなく、「まずは自分が決めた額を自分に与える(貯金する)」ということが大切なんですね。

たいていの人は、月末に給料が入ってきたら、そこから税金やその他のさまざまな支払いを優先させていき、もし1か月後にお金が余ったらラッキーという感覚ではないでしょうか?その残りを貯金に回す人もいれば、余った分も使ってしまうという人もいるかもしれません。「結果的に余った分を貯金に回せばいいんじゃないの?」と思う人もいるかもしれませんが、そこには”計画性”がないために、蓄財に成功することはない!というのが静六翁の考え。

「自分で決めた額を毎月積み立て、たとえ月末にひもじい思いをしようがなんだろうが、残りの予算で生活をやりくりしろ!」という厳格なマッチョが静六翁なのです。この考え方は、日本資本主義の祖父とも言われ、数百の農村や藩を復興させた二宮尊徳とも共通してますね。収入の範囲内でやりくりできるように必ず計画を立て、余剰分を生み出し、積み立てる。近代日本経済をつくりあげてきた経済人たちの言っていることを学んでいると、みな同じことを主張しています。一時的には苦しい思いをするかもしれないが、必ず後になって「楽」がやってくる。「先憂後楽」こそが貯金・蓄財の道を歩むマインドセットなのかもしれません。

艱難辛苦を厭わず努力せよ

そもそも艱難に対抗して努力していると、いつしか自分の可能性と偉大性を発見することになるものだ。すなわち、いわゆる「自己」を発見して、自然と自己に潜在する実在を発揮できるようになるものだ。しかるに、裕福で安楽な生活をしている者は、気の毒にも自分の才能を発見する機会がなく、眼前の快楽に溺れて姑息になり、一生涯自己の真価を発揮することができない。不活発で不愉快な平凡生活に終始し、ついに偉大な可能性をそのまま墓に持ち運ぶのである。言い換えれば、自己の真価は、ただ自分の努力によってのみ発揮されるものだから、努力を欠く人は一つの成功もできずに世を去るということで、人生でこれほど憐れむべきことはない。

本多静六流・潜在能力開花法とでも言うべき内容です。「自分の中の可能性や偉大性に出会いたいのであれば、コンフォートゾーン(ぬるま湯)から出て、高い目標や目的に向かって努力せざるをえない環境に自らを追い込め」と言われている気がします。

人はともすれば、逆境もなく苦しみもない安楽な生活を求め、それが幸福な人生だと”勘違い”してしまいます。「ああ、人生がもっと楽だったらいいのに」と思ってしまうのが人間の性です。しかし、それは私たち人間にとって本当の意味での幸せでも充実でもないんですね。「実はあの時の苦しい経験が、今の自分の人生の成功につながっている」「あの時、厳しい環境の中でもなんとか頑張って乗り越えた経験が、今の自分にとって大きな財産となっている」ということが人生にはあるはずです。人生において「試練」のように思える経験が、よくよく振り返ってみるとその後の人生の幸せや成功につながる「支援」だったということに気づくのです。

逆に、苦を避けて楽だけ得ようとしていると、一時的には楽なように感じますが、あとでどんどん苦しくなる。そのような経験は自分も大小さまざま経験しているので身に染みてわかります。人間はぬるま湯のような環境では成長も満足できないように根本的にデザインされているのではないでしょうか。私たちがこの地球という惑星にいるのは成長するためです。「新しい試練・艱難を喜んで受け入れる」という姿勢こそが、人生を幸せに充実して生きるための鍵なのかもしれません。「ギリギリでいつも生きていたいから Ah ここを今飛び出していこうぜ 」(Real Face/ KAT-TUN)ってことですね(笑)


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